2010年5月26日水曜日
開かれなかったメール
開かれなかったメール その2
2007 11 12
私は少しずつ日本に帰国するためのパッキングをしはじめました
その中で、つい手を止めてしまったもの
セドナの写真集。。。が出てきました。
赤い石から発しているのでしょう。
荘厳なるあの空気感。
初めて体感した、全身への あの強力な「気」。
今回のアメリカでは本当に 本当にいろんなことがありました。
その中でも
今回の交通事故は大きな出来事でした
あなたにとっても大変なできごとであったとおもいます。
けれど、私はこの出来事のおかげで 多くを学ばせていただきました
いままで気づくことができなかった
人生を歩む上で大事な大事な心を 知ることができたのです
深く感謝もうしあげます。
ありがとうございました。
ps・・・昨晩からのロスは久しぶりに霧が立ちこめ綺麗でした。
freeway での事故について

Date: Wed, 2 Apr 2008 16:17:31 +0000
灼熱の太陽が照りつける8月18日昼12時半
日本時間は8月19日
あの一瞬の追突事故が こんなにもカラフルに状況変化を起こし、
大きなお金を出費することに
なるとは思いもしませんでした
あのときは、頭部などをブツケタ衝撃で
痛みとの戦い いつかこの頭痛がとれるのか、、、
いつになったら普通に生活できるのか、とても心配でした
散々、悲惨な テリブルなドクターに出会い
心はいつもおびえて宙に浮いた心地でした
娘の強い協力があったから
なんとか切り抜けてこれました
このときまで、娘がこれほど頼りになる存在であると知りませんでした
そんなある日、出会った新聞の一面記事。
自分にとって最良なドクターに出会ったのです。
彼のアジャストメントは、ただ、薬をあたえればいい、という高額治療とちがって自然治癒力を引き出す役割ももっているのです
そうして、痛みも、体の緊張も、事故で受けたトラウマ
も次第に薄れてきて
人間の再生能力を実感した貴重な体験でした
今世、ひとは一度きりしか死にません
私は今回の交通事故のその日、
娘のパパの誕生日という日、
死んだ風に感じました
もう少しスピードがでていての事故であったら
この肉体はここにいなかったかもしれません
そうして事故から約一ヶ月あまりは
生きた心地のしない
ドクターから危険な状態であると脅される毎日。
入院した病院自身も、なにからなにまで
最低なホスピタリティでした
そうして、現在も私の首の様子をみてくれている
ドクターGからはじめてのアジャストメントを受けた
2007年9月11日
911といえば
この米国に衝撃的な出来事があった日付
私はこの日に、生まれ変わったのです
これまでの自分の生き方、考え方、を総入れ替えできる機会が
与えられたのです
やっとたどりつけたんだ・
感謝と
うれしさで涙があふれてきました
これでやっと 生きられる。。。
心に優しい風がなびき
体に新しい気がみなぎってきたのです
そうして思いました
人生、どんな最悪的なことがあったとしても
その中に、
人間を成長させる素がある。
なんでも学びなのだと。
そうして、すべてのことに感謝をしたくなりました
きっと最悪な状況を味わっていなかったら
感動の大きさも これほど大きくはならなかっただろう
こんなに感動した自分を味わえるのも
あの最悪のおかげだ。
本当にありがとう。と思えるようになったのです。
だから事故というプレゼントを神様がはからってくれた。
お金が出費してしまった
という表面的な損失より、
そこから学んだこと、それからはじまったこと、
未来への明るい架け橋として
その出来事が起こったのだと
改めて心の芯から感じます。
あとは、この体験をどう生かしていくか。
世の中の人のために動く材料として
上手に料理できるかどうか、
早くマウイに行って
執筆活動に専念したいとおもいます。
2008年4月2日 ロサンゼルスのホテルにて。 さなえ
2010年5月25日火曜日
お母さんとごはん
母は人生最後の日を体感していた
私は母の足を温めた
昨日まであたたかかった足が
麻痺して冷たくなっている
祈りより強い思いが充満しながらマッサージ
私は母の足が永遠に温かくあることを願った
汚いものを踏まないように
母は私によく言っていた
足は宝だ
足が丈夫ならどこにでもいける
母の足をさすりながら
私の願いが変わっていった
母の行きたいところへ
行かせてあげよう
私のために
どれくらい道を変えてくれていたのか
母の足は
少しだけ温かくなってきた
疲れるからもういいよ
母はいつでも
まず相手のことを考える
自分が食べたくない日でも
食卓には体によい料理が並んでいた
いま
食欲がなくなり食べられなくなっている私の体
目を閉じると
母のごはんが浮かんでくる
それなら
それなら
食べられそうだよ
お母さん
今の私を
心配してくれているんだね
明日……母の命日
私も同じ日に死にたい
それか
お母さんのために何か作るから
一緒に
ごはん 食べてくれる?
2010年5月21日金曜日
2010年5月19日水曜日
本気で求めればなんでも手に入る

日本時間、午前4時30分
2010年5月18日火曜日
ファースト*エンジェル*ラブレター
エンジェルになって初めてのラブレター?
昨日までドス黒青なアザだったのに
今日はほんわかハート色
右足お皿そば
よく見ると
ハートの中にお星様?
スター☆
そこに触れて撫でてみると
なんだかそこだけやたらにツルツルしてる
まるでだれかが
いっぱい撫でてくれたよう
そう言えば
ビンさんも
死んだ当時は
やたらに
ハートマーカーだったっけ
泣ける,泣けない、泣ける、泣けない
本当に悲しい時は涙も出ないというのは事実です。
泣きたいけど、死を受け入れられないので泣けないのです。
その人が存在しないという現実こそが存在していないんだ、という非現実感がずっと続いている状態。
それが本当の意味での死のショックというものです。
泣けるのは死という現実を受け入れているからです。
心の傷は一生消えずに残る。
泣けなかったのは、おばあちゃんの死。
愛犬サブの死。
ビンさんでものちに体が溶けるほど泣いた。
母の死。のちに魂ごと泣いた。
ロスGの死は最初はしとしと、それから狂うように泣いている。
いろんなひとからのお言葉集
死んじゃったら本当に悲しいし、後悔もするけど、泣く人がいるだけでも
すごく死んだ本人にとっては幸せかもしれない。Sさんがんばれー
『お父さんとの思い出と、うまく付き合っていきましょう』
ヒントがあると思うよ。
一年半たったけど、いまだに思い出すと逆上しそう。
大事なものが引き裂かれた気がして鬱病になりました。
「傷を抱えたまま生きるという人生を受け入れる」ということ
なのだと思うようになりました。
其の喪失感!悲しいなんて言葉で現せるものじゃなかった。
痛いんです、心も身体も全部痛くて苦しくて、切り刻まれるような
思いでした
ameblo 行き
大切なひととの死に別れ。。。悲哀のプロセス
2010年5月17日月曜日
体にくる現象
夕陽がつらい。
またか! 私との真実を天国で知るひと
気づくのがいつも遅い私
2010年5月16日日曜日
いったりきたり きたりいったり
日常の習慣が終わる寂しさ
2010年5月15日土曜日
見えない伝言の強力さ
仲良き事は最高なり
=仲悪き事は最低なり
ロスGが死去
という悪いできごとが起きていたとき
我が家族は大げんかをしていた
何か別のエネルギーがうごめいている感じがした
今日ばかりは抑えきれない何かが存在していた
3人とも暴れずにいられない何かが。。。
ビンさんが危篤状態だった前日、、、、
私の体が電気人間になり
じっと座っていられなくなったのを思い出した
1ヶ月程前からパソコンをはじめ、毎日掲示板に何か書いたりしていたのに
その日だけからっぽ。パソコンも開けない、ひとところに座ってられない
子宮からぐわんぐわんとマグマが暴れて、、、
周りの家族にも、私はすごく変になってる!こんなのはじめて!!と
叫んでいたっ
あとでビンさんの身にそういうことが起きていることを知り、
ビンさんが逢いたくて逢いたくて呼んでいたのか、それとも
ビンさんの事態を私が知り、全身で巨大な「気」を炸裂させて送ろうとしていたのかなとも思う
今回のロスGについても
家族3人とも縁がある
よってこのような警察を呼んで止めてもらうくらいの大騒動になったのだ
そうして、これまで父とは取っ組み合いになることもあったが、
「お前なんて首をやったら、イチコロだろ!」と口で言うだけで
決して私の首の傷へは手をあげたことがなかった父が
この日は、そこにめがけて来た。
それを見ていた娘も、ママが殺される的な感じを感じたらしく
これまでおじいちゃんには暴力をしたことなかったのに
この日は、殴りかかっていた
とにかくビデオをまわしていたかったほど
前代未聞なドラマな大混乱風景だった
買ったばかりの携帯電話、ファックス電話機、食器棚の食器たち、クローゼットの引き出し全壊、ふすま、扉、観葉植物まきちり、本棚の本、椅子、おまけに墨汁まで飛び散って床は真っ黒。
これもロスGが
あの日の痛みを思い出して。
あの頃の自分との思い出を忘れないで。
という小さなお願いだったのかも
それをキャッチした父が、私の首へ
父は私を殺そうなど思わないし、しないから
この日は、みんなスピリチュアルなエネルギーの中にいたんだと
今日、不思議が溶けた。
ps、父はその様子を写メールしていた
ビンさんがつないだ縁だから
私だけが知っていること
もうひとつ発見、一番最近、
私はいつロスGに電話をしているか
と、ネットで調べてみたら
ハワイ時間で
4月25日の午前5時
ロス時間では午前8時
2回電話しているが出なかった
息子さんの話によると
最初に倒れたのが4月17日(日本ではビンさんの命日)
そのまま台所で1週間。。。
這って、ペプシを手にとって飲んだらしい
私の電話のベルが響いた時この状態で6日目
もっと衰弱しているだろうに
もしかしたら
私の電話のパワーで起き上がることができたんじゃないかな
自力で
救急車を呼んだのがその日だったそう
息子さんは27日に病院へ行って少し話しをできたそう
でも息子だとわからなくなっていて
2階の部屋(ロスGの家は平屋)に2人、不審者がいるから追い払うように
という話だとかいろんな幻覚っぽい話をしていたそう
それにしても
戦場で匍匐前進のスタイルで1週間、戦ってきた兵士のようだ
5月4日に一度、良くなったと病院を退院したらしい
その後、どうしてどうなってか機械に繋がれた植物人間状態になり、このままずっと機械で呼吸をさせておきますか?と尋ねられた息子さんはそのサポートシステムを止めてもらうように話しをしたらしい
では、いつに?と聞かれて
すぐには答えられなかったそうで、少し、待ってください
そんな次の日、心臓が停止したとの知らせを受けたそうだ
息子に、自分の死ぬ日を決めされるなんていう過酷なことを
したくなかったのだろう
一日延びればそれだけ金がかかる
そう言っているロスGの声が聞こえてくる
私の母も、倒れて2日で逝ってしまった
管に繋がれて生きていたくないわーといつも言っていた母だった
逝く時は、あっと言う間に、はいバイバーイ!がいいわ。
明るい母は、その自分の死に方に満足していることだろう
ロスGは、、、、死に間際、、、
たったひとつ夢が叶うなら、、、、
どんなことをいうだろう。。。
わたしだけが痛いほど知っている
このことを聞いても、
こみ上げた感情で覚えていない。











